コンサート情報 2006年

フランス・バロック音楽コンサート 無事終了いたしました
11月18日(土) 15:00〜
日本シャンソン館 (渋川市)  Tel. 0279ー24ー8686
一般 2500円  友の会会員 2000円

渡辺敏晴 チェンバロ コンサート
「ヴェルサイユからパリへ」〜フランスの心〜
12月14日(木)  19:00〜
群馬会館1F 大広間
一般2000円  学生1000円
お問い合わせ、予約 
 「バロック音楽を楽しむかい」 つのだ 027ー323ー1928
渡辺敏晴 toshimusikk@ybb.ne.jp
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# by toshimusikk | 2006-11-15 16:51 | 音楽

尖った集中、ゆるんだ集中 3(終わり)

前回はつい比喩に頼って話が脱線してしまいました。

しかし、言いたかったことを要約するとこうなります。
「演奏家は自分の好き勝手な表現をすればいいのではない。作曲者がこうあってほしいと望んだものと、聞き手が心を開いて聞くことができる何かとを音楽の演奏によってつなぐ役割を負っている」のです。

独奏していると、自分一人が目の前の音楽と格闘している、自分一人が表現者として演奏しているという錯覚に陥りがちです。しかし実際には、音楽は演奏者一人のものではありません。目の前にはいなくても、常に作曲者や聞き手の存在が一人の表現者の演奏を支え輝かせているのだと思います。

独奏していると、「これは自分の音楽だ」という錯覚に陥りがちです。しかし実際は、どんな個人的な音楽も本質的に必ず「私たちの音楽」に繋がっているのだと思います。だから音楽は「私とあなたたち(かれら)」のもの、つまり「私たち」のものなのだと思います。

演奏中、自分自身に集中してしまうことは多いものです。いい演奏を望むと必ずそれは起こります。これを仮に「尖った集中」と呼んでみます。
けれどもこの集中の焦点を少しずらしつつ、点を円に感じていくとします。「わたし」への集中から「わたしたち」への集中へ!! この広げられたフォーカスを持つ集中を「ゆるんだ集中」と呼んでみたのです。

ようやくこの日記のテーマの意味ににたどり着きました。 ホッ・・・

とはいえ、ことが内面の問題なので、具体的にこうしてああしてという具合に表現できないことが残念。。お詫び申し上げます。

これを読んで下さった奇特な皆様のご厚情に感謝!!
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# by toshimusikk | 2006-11-14 11:48 | 音楽

尖った集中、ゆるんだ集中 2

練習を積んで、人前で弾いてもほとんど間違えずに弾けるようになって、さてそれからどうなるの?
こんな問い掛けがいつしか自分の中に生まれました。
難しい曲でも間違えずに弾ける技術は確かに必要です。しかし自分は表現者としての器楽奏者なのですから、曲を正しく弾く以上のものを求められているのです。
聴いて下さる人の側に立つと、単にバッハやヘンデルの作曲したものを聴きたいのではありません。演奏家を通して彼ら作曲家の背後にあるもの、彼らにその曲を作曲させた何ものかに繋がることによって、作曲者も体験したであろう感動、演奏家も体験したであろう感動に共鳴しながら、聴き手自身の心に生まれる感動に巡り会いたいはずなのです。

そう考えてみると、演奏家の立場というのは実に微妙な細いほそい道筋の上にあるように思えてきます。
この道の両脇は、たとえれば、どちらも深い谷です。一方は作曲家がかつて自己のうちなる世界を託した音楽があり、もう一方の谷には新たな感動との出会いを待ち望む聴衆の熱い心があって、じっとこちらを見上げているのです。
ここでは演奏家は作曲家の残した音楽を自分の心、自分の体を通して演奏することにより、輝き、光を放ちます。なんと言うか、発光するのだと考えて下さい。しかしその光は一筋の細いほそい道の上を注意深く歩き続けていないと薄れてしまいます。ただひとつ分かっていることは、その道に終わりがあるということ・・・なぜなら、全ての音楽作品には終わりというものがあり、終わることのない音楽作品は存在しないのですから。
そして、その終わりに到達したとき、演奏家自身も片側にある作曲家の思いも、また、もう片側の聴衆の心もみな光り輝くことができていたら、それこそ私にとっては理想的な演奏、最高の演奏ができた瞬間に巡り会えるというわけです。

何だ、あり得ないおかしな喩えではないかと思う方もいるでしょう。しかしそこは少し我慢して下さい。私自身が文筆家ではなくてただの演奏家ですので、どう表現するのがいいのか、かなり困惑しながら話を進めているのです。

なぜ演奏家は輝くことができるのか? 今度はそのことが気になってくるのですが・・・ああ、なかなか本来のゆるみのところまで話が到達しませんね。。あと少しのように思うのですけど・・・でも今回はここまで、   つづく
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# by toshimusikk | 2006-11-10 00:46 | 音楽

雲一つない晴天でした

昨日はあんまりお天気がいいし、仕事もないので、午後久しぶりに赤城山に出かけてきました。
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じつはぼく、赤城山に行くのはこれまで冬専門でした。山上湖の大沼が全面凍結した頃からワカサギつりに出かけていたのです。
当然のこと凍った山道を上りも下りもドリフトしてしまう車にカウンターを当てながら、毎年何度となく往復したものでした。
雪も氷もない道を上っていくのは本当に久しぶりです。きのうは完全なる晴天のせいで、かなり気まぐれになっていましたね。
大沼の周りの旅館やお土産屋さんの一軒に塩原山荘があります。ここの女将さん純子さんが知り合いなので顔を出してみました。
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夏の営業を終え、もう店じまいの準備を始めているではありませんか。。
全ての商品棚に大きな白い布がかけられています。それでも純子さん、ぼくのためにわざわざ営業用のマシンでコーヒーを入れてくれました。
昨年亡くなったご主人の作曲された曲を集めて、この1年祭にCDを作られたこと、日動画廊の現代アート部門で活躍されている息子さんの最近の様子など、ゆっくり伺ってきました。
コンサートの予定が目の前に迫っていると、何かとゆっくり過ごす余裕も無くなってきます。今日はそんなことも忘れて、陽射しの美しい午後の山上でのんびりしたひとときを過ごせました。

さあ、このあと頑張るぞ〜!!
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# by toshimusikk | 2006-11-09 00:08 | 雑記

尖った集中、ゆるんだ集中 1

演奏家は多くの聴衆を前に、一期一会、その時限りの生演奏を行います。
ただ一人のために演奏するのも難しいことですが、多くの聴衆を前に、全ての人に向かって音楽を届けようとすることも難しいものです。
どんな場合も演奏家は緊張しています。その緊張は時や場所、コンディションや雰囲気によって大きく様変わりします。
この緊張によってリズムが悪くなったり、細かいパッセージで指やbow、息のコントロールがうまくいかなかったり、あるいはこちらの緊張があからさまに聴衆に伝わって雰囲気全体が硬くなってしまったり、とにかく難しい事態になってしまうことが多いのでした(私の場合)。
この緊張を解きほぐすのは至難の業、そして気持ちを強くして乗り越えようとすると、集中力は高まる反面、どんどん尖ったものになってしまいます。
それでもキャリアを積むに従って、崩れない演奏ができるようにはなります。時には自分の演奏を楽しんでいる自分を発見することもあります。

しかし、ただ練習をつめさえすれば何とかなるような次元とは違う、もっと自分が自由に羽ばたけるような、自分が演奏をすることでもっと広い世界、もっと深い世界へ繋がっていけるような境地があるに違いないと、いつもそう思わずにはいられませんでした。そんな気はするのでしたが、では、何をどうして、自分の心をどんな風に高めていったらいいのか・・・
こういうことを教えてくれる音楽学校や教師はいないし、また、同じ問題を語り合えるような仲間もいざとなると見つからないものです。

ジャズや軽音楽、民族音楽等で活躍している音楽家は、いつもすごく自然に楽しみながら自由に演奏しているように見えます。
これに対しクラシック系の音楽を演奏する場合には、作曲されたものをいかに正しく、美しく、内容深く伝えるかというプレッシャーが存在して、おそらく演奏家は常に自分自身と格闘せざるを得ないのです。 ・・・つづく

  演奏家にとってのゆるみとは
「ゆるみ」について考えると
分かっているのに気付かない
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# by toshimusikk | 2006-11-08 09:33 | 音楽

今年最後の演奏旅行を終えて

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演奏旅行の最後だった群馬県太田市のレストランPIAのライブ。
2回目の演奏が終わったところで控え室がわりの隅の席で休んでいると、アルバイトの女の子がおしぼりを持ってきてくれました。そして、
「あのぅ、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」と彼女は小声だけれど真剣な感じです。
「学生の頃から、今みたいになりたいと思っていたのですか?」
「演奏家になって、その後でもまだ新しい夢を持っていられるのですか?」
聞けば彼女はずっとピアノをやっているのだけど、最近はあまり練習できないのだとか、音楽に費やす人生に疑問を感じ初めているのでした。ステージの合間の束の間の会話です。しっかり思いを受け止めながら聞いて、話したいのだけれど、時間がなくてそうしてあげられない。真剣に答えてあげたいのに、その思いは伝わったかなぁ。。

実は今日のライブの前に、ぼくは携帯のメールに友人からすごくいい言葉を貰っていました。
「愛されているというのはきっと、今生きていることがその証拠。忘れてはならない大事なことです。」

生きるって本当に奥深く味わい深いです。
たくさんの喜びや悲しみ、苦しみ、そしてたくさんの愛が詰まっているみたいです。

今回のツアーにご協力下さった小川淳君、久米亮子さん、マナ保育園高田ご夫妻、デザイナー真下睦子さん、地球屋のみなさん、その他多くの皆様、ありがとうございました。
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# by toshimusikk | 2006-11-07 11:10 | 音楽

2つのライブ

昨日、11月2日は群馬県榛東村の地球屋さんというちょっと変わったお店のちょっと変わった音楽祭で、ソロのライブをしてきました。
いつもの小さなイタリアン・チェンバロを持って榛名山の裾野を上がっていくと、観光バスもよく訪れる「榛名グラス」という大きなガラス工房があります。その向かいの骨董と着物のお店です。
今年そこで吊るし雛の全国コンクールというのをやり、その一環でギネスブックに挑戦した世界一のつる吊るし雛を展示しています。この度、その吊るし雛に見事ギネス認定証が届いたのです。
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チェンバロを演奏する私の脇の壁に何やらたくさん吊るしてあるのは、その吊るし雛に使われるお人形です。一体一体が、何となく小猿のような格好をしています。

ライブと言うのは意外に楽しい仕事です。ほとんど聞かずに素通りの人もいますが、コーヒーを注文してじっくり聞いて下さる方もいます。そんな方は帰りがけに、決まって声をかけて下さり、お辞儀をされて去っていきます。やっていて、いいなぁ〜、よかったなぁ〜、と思える瞬間です。

4時にライブを終え、荷物を車に積んで速攻で一路愛知県大府市へ。
考えたら大変な移動です。若いときにはやらなかった?!・・・
それが今は平気でできます。ぼくの人生、これから再スタートという気持ちでいますから。。
途中通った東海環状自動車道はすごかった!! 広くて、きれいで新しい、しかも飛ばせる!! 120キロでス〜イスイでした。

そして今日3日、名古屋市緑区のマナ保育園竣工式の祝典と祝賀会にて演奏。途中からはもうライブです。どんどん弾いちゃいます。チェンバロを弾いて、聞いてもらえるのは楽しいです。ぼくって昔と比べてずいぶん変わったなぁ。
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保育園なのにとても素敵な建物。ホールも響きがいい、何より天然木をふんだんに使用しています。どんな大きさの部屋でも、木造の空間でチェンバロを演奏すると、音が大変美しく聞こえるのは何度も経験しましたが、ここもやはりそうでした。
園長先生の3人の娘さんはみんな音楽家です。次回はぜひジョイントを、、、話題も広がる楽しい一時でした。
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# by toshimusikk | 2006-11-03 16:10 | 雑記

ちいさなツアー

11月2日から小さなツアーが始まります。帰宅が5日の深夜だから、ほんとたったの4日間です。それでもコンサートであちこち回れるのはうれしい!!

どんな人たちと出会えるのか、どんな苦労が待っているのか、自分の限界はやってくるのか?
ちょっとした冒険ですよね。

でも、一つの小さなツアーが次のツアーへとつながっていく。それは確かな手応えとして感じられます。不思議なことです。人って、動き始めると何やら回りもそろって動き始めるらしい。

音楽という仕事は、放浪していてもなんとかやっていられるものです。むしろ、どこかの小さな町に根を下ろして動けなくなってしまうと、仕事は細って枯れていきます。いくら人々が音楽を愛するといっても、音楽家に対していつも優しいわけじゃない。
学校の先生になれば別だけど、ぼくのように自由に演奏しているだけの音楽家は時には冷たい風に吹き曝されることもある。しょせんは芸人ですから・・・

親には大金を使わせて勉強させてもらった音楽だけど、いつまでたってもこの恩を返すことは難しい。ただ、ぼくの音楽を待ち望んでいる人がいる。それで心が癒され、救われるように感じてくれる人がいる。その人たちのおかげでぼくがいる。ぼくを応援してくれる人たちに、たくさんの小さな絆で支えられて音楽を続けていることが、ぼくがこの世界に必要とされている証だと気付かされることが本当にうれしい。
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# by toshimusikk | 2006-11-02 00:47 | 雑記

演奏者にとっての「ゆるみ」とは

「ゆるみ」という感覚がどういうもなのか、どんな利点があるのかお伝えするのは、やや思索的すぎて難しくなります。私自身がまだ研究段階でうまくまとめられないということもあるのですが・・・

そこで、意識しなければできない「ゆるみ」というものがあると初めて気付いたころ、私自身が具体的に何を実践していたかについてお話ししましょう。
 
それは歌の勉強でした。私は歌手(歌の専門家)ではありませんが、コンサートで何度か弾き歌いをしていました。しかしそれはいつも中途半端で、チェンバロを弾きながら歌うことにどれほど説得力があるのか???といつも反省していました。
まず、クラシックの歌曲を歌うわけではないので、やたらと響く声を出す声楽家的発声は無用だと考えました。もっと自然な声で歌いたいとは思うのですが、実際に声を出してみると何の魅力もないつまらない歌い方しかできないのです。自然な声で、なおかつ良く響くいい声で歌いたいという思いがどうも不必要に空回りしていたみたいです。
ところがです、自分の中にイメージした「ゆるみ」に声を響かせるようにして歌うと、いままでいい声を出そうともがいていた歌い方と打って変わって、歌声の響きに自然さと広がりが得られ、抑揚も表現力も安定感が出て自分自身歌うことが楽しくなるような感覚に出会えたのです。

その時の私が理解した「ゆるみ」のこつとは、まず「気」を上(喉)に上げないようにすること。意識は常にみぞおちの辺り(私の場合です)。そして声の響きを必ず一度体に戻してあげること、自分の体が楽で気持ちいいように歌うこと。今振り返ればそんなことだったといえるでしょう。そして、この歌い方によって得られた感覚が、歌う、に留まらず、弾く、はっきりと影響を与えることに気付いていきました。

ここから、チェンバロやガンバの演奏法にも繋がっていくのですが、それはまた後日。
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# by toshimusikk | 2006-10-28 00:06 | 音楽

「ゆるみ」について考えると

「ゆるみ」ということに最初に気付いたのは、ニューミュージックの歌手EPOの「Kawi-唄の谷」というアルバムを聞いていたときのことです
このアルバムは全体がすごくリラックスした感じで、『みんな、こんな時代だけどしっかり明日を向いていきていこうよ』というようなメッセージが心優しい歌詞とメロディーで歌われています。
この歌手が全く自然に聞かせてくれる聴く者の緊張を解きほぐしてくれるような歌い方はどこにこつがあるのだろう・・・? それが気になって、自分なりにいろいろ考えてみました。
そしてついにこのCDに合わせて歌ってみると分かったのです。歌の音程がここという時ではかなり低めにとられている。ところが伴奏を含めた全体の演奏を聞いているとそれがちっとも気にならないのです。この音程の取り方は実は歌手EPOの歌唱テクニックの一つでした。

つまり、音楽表現を中心に考えると、音程には全体に遊びがあって、緩やかな幅を許容しているということですね。
そこで、歌には歌手自身の喉や胸、音程を合わせて歌おうという緊張感などが緩んでいないと歌えない音程の幅がある、という結論を得ました。
この考え方は、実はぼくが長い間追求してきたチェンバロのタッチの問題やガンバのボーイングの問題と根っこを同じにしているということに気付かされたのです。

ぎりぎりの緊張を強いながら正確な演奏をすることと、リラックスしたゆるみに支えられていて多少のミスタッチなど気にしない流れを重視した演奏をするのと、あなたならどちらを自分のスタイルにふさわしいと感じますか?  聞く者の立場になってみると、後者を支持する方が多いのでしょう、きっとね。 だって、演奏者の計算外のアクシデントのある演奏の方が面白いじゃないですか!!

今日は前回の「分かっているのに気付かない」という日記にアンサンブル・ビクトリアの鈴木雄三さんからコメントをいただいたので、この問題をもう少しお話しようと思い「ゆるみ」の問題その2、として取り上げました。つまり以後その3、4と続けていきたいと考えています。
とりあえず、その2はこの辺で・・・次回をお楽しみに。。
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# by toshimusikk | 2006-10-26 00:54 | 音楽