尖った集中、ゆるんだ集中 2

練習を積んで、人前で弾いてもほとんど間違えずに弾けるようになって、さてそれからどうなるの?
こんな問い掛けがいつしか自分の中に生まれました。
難しい曲でも間違えずに弾ける技術は確かに必要です。しかし自分は表現者としての器楽奏者なのですから、曲を正しく弾く以上のものを求められているのです。
聴いて下さる人の側に立つと、単にバッハやヘンデルの作曲したものを聴きたいのではありません。演奏家を通して彼ら作曲家の背後にあるもの、彼らにその曲を作曲させた何ものかに繋がることによって、作曲者も体験したであろう感動、演奏家も体験したであろう感動に共鳴しながら、聴き手自身の心に生まれる感動に巡り会いたいはずなのです。

そう考えてみると、演奏家の立場というのは実に微妙な細いほそい道筋の上にあるように思えてきます。
この道の両脇は、たとえれば、どちらも深い谷です。一方は作曲家がかつて自己のうちなる世界を託した音楽があり、もう一方の谷には新たな感動との出会いを待ち望む聴衆の熱い心があって、じっとこちらを見上げているのです。
ここでは演奏家は作曲家の残した音楽を自分の心、自分の体を通して演奏することにより、輝き、光を放ちます。なんと言うか、発光するのだと考えて下さい。しかしその光は一筋の細いほそい道の上を注意深く歩き続けていないと薄れてしまいます。ただひとつ分かっていることは、その道に終わりがあるということ・・・なぜなら、全ての音楽作品には終わりというものがあり、終わることのない音楽作品は存在しないのですから。
そして、その終わりに到達したとき、演奏家自身も片側にある作曲家の思いも、また、もう片側の聴衆の心もみな光り輝くことができていたら、それこそ私にとっては理想的な演奏、最高の演奏ができた瞬間に巡り会えるというわけです。

何だ、あり得ないおかしな喩えではないかと思う方もいるでしょう。しかしそこは少し我慢して下さい。私自身が文筆家ではなくてただの演奏家ですので、どう表現するのがいいのか、かなり困惑しながら話を進めているのです。

なぜ演奏家は輝くことができるのか? 今度はそのことが気になってくるのですが・・・ああ、なかなか本来のゆるみのところまで話が到達しませんね。。あと少しのように思うのですけど・・・でも今回はここまで、   つづく
[PR]
by toshimusikk | 2006-11-10 00:46 | 音楽
<< 尖った集中、ゆるんだ集中 3(... 雲一つない晴天でした >>